第3回日米独原子力政策会議を古都・奈良で開催したのは、1983年の8月のことであった。1回目はハワイで、また2回目はボンで、1979年から2年に一度、米・独・日の順に開催してきたものである。

 大島先生は、前2回とも日本側参加者の代表であったから、日本で開催する第3回の会議では、当然のこととして、議長を努めて頂くことになっていた。ところが、開催日の直前になって突然入院され、たしか腸の内側にできたポリープを手術されることになった。急な代役に、日本原子力産業会議の村田浩副会長が快くお引き受けて頂いたことも、今では懐かしく思い出されるのだが−−。

 大島先生のその時の手術は割合簡単だったように思われた。数週間か一ヶ月程度で退院されたのではなかったか、と記憶している。まもなく以前にも増してバリバリ活動をこなされるようになって、われわれも安堵したのであった。

 「突然の入院」と表現したが、この先生のご病気の兆候は、もうその数か月も前からでていた。会議の議長として、またコ・スポンサー側研究所の副理事長として、企業や団体に協力のお願いに自らかけずり回られた時のことである。不肖私が同会議の事務局長を仰せつかっていたものだから、先生のお供でついてまわっていたのだが、お目にかかる方々の会社や団体のビルに着くと、必ずといっていいほど面接前にご不浄に駆け込まれた。胃腸の薬を適当に買ってきてお薦めすると、意外に素直にお飲み頂いたことを、今でもはっきりと思い出す。

 最後の入院となったご病気の時は、不肖の弟子は、各界で活躍中の絶世の美女達で団を組んだ『欧州原子力環境視察団』の顧問として、深まりいく秋の旅行を楽しんでいた。帰国後のたまった仕事も片付け、そろそろ報告に参上しようと思った矢先、先生の訃報に接した、天国から地獄へ突き落とされたようなショックであった。

 「なんと不謹慎な!」とお叱りを受けようが、フェミニストでいらした先生の薫陶を受けた小生としては、チェルノブイリ事故の欧州諸国に与えた影響を自分で確かめ、エネルギー問題や原子力問題を理解しようとする、今日ではけなげともいえるレディーたちのお手伝いをかってでることを、先生なら賛成して下さるだろう、と確信したからである。

 私的研究グループ『行動するシンク・タンク推進(ATT)グループ』、財団法人『工業開発研究所(IRI)』、エネルギー推進市民運動母体『エネルギーと暮らし・市民の会(CAEL)』と、私が関係してきた分野のほとんどの部分で、もう筆舌に尽くしがたいほどご指導をいただいた。

 アクティブな科学者、行動する研究者は、先生そのもののお姿であり、その存在は、私が少しでも近づきたいと努力してきた「お手本」であり、人生の目標であった。「これから私は、何をお手本に、何を目標に生きればよいのですか」と尋ねれば、クドクドとお説教などされずに、「君は相変わらずバカだね」と一喝して、カラカラと笑われそうである。