<時評・ウェーブ> 電気新聞(2001年4月6日)

     

6千万人の訪問者との語らいを

              近藤 駿介(東大工学部教授)

<その2>


[第2段〜第3段]
> 彼は、我々の社会には、行政や経済といった機能的なサブシステムを基盤
>として、権力や市場取引により行為調整を行いつつ社会の「システム統合」
>を目指すシステム合理性の領域と、人々が生活世界に基盤をおいて言葉を介
>した了解により行為調整を行いつつ、目標などを共有する「社会統合」を目
>指すコミュニケーション的合理性の領域とがあるという。そして、前者の領
>域では、人の言説の妥当性は専ら客観的事実に基づくかどうかの「真理性」
>を巡って主張・批判されるのに対して、後者の領域では、「真理性」だけで
>はなく、自分の言っていることが仲間の社会規範に照らして正しいという
>「正当性」、そしてそれが自分の気持ちや意図に忠実だという「誠実性」の
>三つがバランスよく主張され、批判されることによって調整が進行するとす
>る。
 ここでいう「彼」とは、近藤先生が原子力長期計画(長計)策定作業中に寄せられた国民からの膨大な意見のファイルを見ながら思い出された言説「コミュニケーションの社会的機能の重要性」を説いたハーバーマスのことだが、ハーバーマスさんとは如何なる国のどういうお方なのか、残念ながら我々の仲間で知る者はいなかった。近藤先生に電話で聞けば懇切丁寧に教えていただけるだろうが、今回は深く追求しないことにした。

 なかなか難解な文章だが、かみ砕いてみると、我々の社会は2つの「領域」に分けることができる、ということだ。

(1)システム合理性の領域
  法律や商取引の契約などによって調整を行いつつ社会システムを統合していく(行ける)領域。この領域での人々の主張は、客観的にみて真理があるかどうか、という面から意見が戦わされる。

(2)コミュニケーション的合理性の領域
  人々が生活する世界で、言葉を介して了解することにより調整を行いつつ、目標などを共有する領域。「真理性」「正当性」「誠実性」の3つがバランスよく議論されることにより調整がうまく進展する。つまり、この領域では、(1)の領域では通用した「真理性」だけでは進展せず、正当であるかどうか、と誠実に主張しているかどうかといった面も加えてはじめて調整がうまく運ぶのである。

[第3段〜4段]
> この説を思い出した理由は、計画案がシステム合理性の領域で用意されて
>いるのに対して、応募意見の多数を占めた「これだけ多くの国民が不安に思
>っているのだから原子力推進を一時停止すべきでは」、「風力とか太陽熱と
>いった自然エネルギーの活用や省エネルギー努力の充実で、巨大技術である
>原子力に頼らないようにできるし、そうすべき」という批判的な意見は、み
>かけとは異なり、投稿者の生活世界における正当性や誠実性の観点からの批
>判に思えたからである。このかみ合わない議論をかみ合わせるためには、ど
>うしたらいいのだろうか。
 原子力長期計画は、行政側で作業を進めて策定されたもの、つまり、システム合理性の領域の社会で準備されたものである。ところが、長計に対する国民の批判や意見は、コミュニケーション的合理性の領域に基づくもので、両者の意見は、まったく違った社会の領域のものだから噛み合わせるのは非常に難しい。

 少なくとも、(1)の領域のような、長計の妥当性を客観的事実に基づいているかどうかの「真理性」を巡って批判してくれることを国民に期待しても無理というものだ。なぜなら、長計に寄せられた国民の批判は、投稿者の生活世界における正当性や誠実性の観点からの批判で、これはまさしく(2)の領域からの批判だからである。

[第4段〜第5段]
> 小生は、すでに生活世界が取り入れている技術と原子力技術は本質的に異
>なるとの主張を拒否するが、同時にこの現実を踏まえて、原子力界に対して、
>国民の生活世界における正当性や誠実性の観点から矛盾しない原子力技術の
>あり方を追求し、そのことについてのコンセンサス形成を目指すことを求め
>たい。具体的には、脳は情報の多くを視覚によって得て、発話、つまり、コ
>ミュニケーション行為を通じて自分の知識にすることを踏まえ、全国の発電
>所や関連施設で、対話機会を充実した見学者受け入れ活動や、そのバーチャ
>ル版としての臨場感のあるホームページと対話コーナーの運営を充実させる
>と提案したい。
 技術を論じる場合、「自動車」にたとえ、我々の日常生活の中に溶け込んでいる技術を「大衆車」、まだその安全性などが一般国民から十分な信頼を得ていない技術を「スポーツカー」ということがある。この点からすれば、少なからず国民から不安に思われている原子力は、未だ「大衆車」とはなっておらず、「スポーツカー」ということになる。

 しかし、近藤先生の主張同様、我々も、日常生活に取り入れている技術と原子力発電の技術は、本質的に同じで、すでに「大衆車」にしてきたと思っている。ただ、国民の絶対的な信頼を得ていないという現実を直視して、国民生活の中に存在する原子力の正当性と、決して不安感など持たせないという誠実性を、これからも追求していかなければならない。

 原子力界は、これからも技術の発展に務めるのはいうまでもないが、それと共に、国民の理解を求める努力も重要である。その具体的な方策として、原子力発電所など関連施設の見学者との対話を重視することを提言している。また、見学に来られない人々のためには臨場感のあるホームページをつくること、そして対話コーナーの運営を提言している。

 ついでに申し上げるが、この種の「対話コーナー」の運営は、我々の仲間がパソコン通信ネットワーク「エナジーNET」を平成元年から運営している。

[第5段]
> 大電力の原子力発電所見学会に参加したけれども、歓待はあれど対話がな
>かったことに誠実さや正当性の欠落を感じたとの感想を聞くこともある。見
>学に参加する人々が実は対話を求めていることを忘れずに、原子力界は全国
>で十年間に6千万人を超える人々とサイトやホームページで対話することを
>目指してはどうか。この活動は、その原点となる誠実なプラント運営の継続
>を通じて、安全性確保と経済性向上にも寄与するに違いない。
 まったくその通り、とだけいっておこう。

      「G研」代表