> 近代社会の基本理念は、社会の構成員(=市民)を対等な権限者とするル >ール決定の社会だという点にある。法やルールの権威は、特権者、聖なる超 >越者を源泉としない。すべての成員を対等なメンバーシップとして認め、フ >ェアなルール運用のもとで互いに生き方の自己決定を認めあう、そして社会 >の諸矛盾をたえず克服できるように、その基本ルールは成員の合意によって >いつでも改変されうること。これがルール社会の基本原則であり、この原則 >は、理念的には国家関係にも適応可能である。そして、ここから「市民社会」 >における「教育」のあり方の原則が出てくる。このパラグラフも、一字一句置き換えなければならない用語も追加説明も不用と思われる。
> 市民社会における教育の根本目的は、すべての成員に、生き方を自己決定 >しうる可能性の条件として知識を含む諸ルールの習得の機会を対等に提供す >る、という点にある。この諸ルールの習得は、市民社会におけるルールの >“本質”(=存在理由)の理解、ということを含む。このことこそ、各人が >社会ルールの対等な担い手であるという公共的感度の源泉となるからだ。こ >こからまた、教育の内実についての二つの大きな原則が導かれる。「歴史教育」であれ、「エネルギー教育」であれ、社会と教育の原則的理念には何ら違いはない。よってこの部分も置換すべき部分はない。
> 第一は、「国民教育」ではなく「市民教育」が基本理念となる、というこ >とだ。歴史的には、近代諸国家は例外なく「国民教育=ナショナリズム教育」 >を教育の基軸としてきた。近代が総じて国民国家どうしの激しい競合の時代 >だったことが、これを正当化してきたのだ。しかし現在では歴史的条件、国 >際的条件が変化し、「国民教育」はもはや“国益”にすら反し、どんな意味 >でも無意味なものになっている。「エネルギー教育」においても、もちろん「ナショナリズム教育」の「国民教育」では矛盾が生じるであろう。国のエネルギーの需給戦略は国民のためのものだが、国益だけの座標で考えたのでは根本的な解決策はない。エネルギー資源においても、環境保全においてもグローバル(全地球的)な視点で捉えなければならないからだ。よって、このパラグラフも非常に良くマッチしている。
> 第二に、教育内容についての原則がある。大枠を言うと、まず科学的諸知 >識については近代の実証主義の知見を取るということ(オーギュスト・コン >トのいう、神話的知見、形而上学的知見を排すること)。つぎに、文化、歴 >史、倫理など、価値観や世界観を含まざるをえないものについては、基本的 >にはこれまで認められてきた伝統的価値観を示しつつ(さもないと何も示せ >ないし、また特定の世界観を教えるべきでもない)、しかし文化や価値観に >ついての「相対性の原則」をはっきりと教えること。さらにまた、文化や価 >値観は、時代の要請に応じ新しい世代の手でより適切なものに印刷されてゆ >くべきだということも、示されないといけない。エネルギー分野の「伝統的価値観」は、とくにエネルギー資源の節約や省エネルギーの単元で、日本の伝統的価値観を提示されるであろう。すなわち、「浪費は悪」という日本古来の倫理観が最近忘れかけているが、もう一度見直されなければならないだろう。また、日本の伝統的な家屋の造りは省エネに適しているが、こういったところにもエネルギー教育における「伝統的価値観」を教えるうえでの絶好の教材である。
エネルギー教育においてはっきりと教えなければならない文化や価値観の「相対性の原則」とは、メリットとデメリットであろうと理解する。つまり、原子力でも、自然エネルギーでもメリットとデメリットは存在するのである。そのことははっきり示さなければならない。
> したがって、私の意見はこうなる。これまでの教科書の歴史記述にやや >“左翼的”偏向ありとする「つくる会」の主張は、私としてはある程度理解 >できなくない。左翼的批判だけではもはや新しい社会構想を示せないからだ。 >しかし、各「国民」は「国民の物語」として「歴史」を持つべきだという考 >えは時代遅れであり、間違っている。歴史はたしかに解釈を含む「物語」と >いう側面を持つ。しかし歴史は「神話」ではありえない。一つの歴史像に別 >のものを「真の歴史」として対置することではなく、どんな歴史像も文化的 >価値の相対性のうちにあることを教え、さらにそのことを通して、文化間の >相互了解の普遍的な可能性を理解させることこそ、市民的教育にとって重要 >なのである。最後のパラグラフは、竹田氏の主張のまとめだが、この部分も「エネルギー教育」に当てはめて用語を置換してみると、次のようになる。置換した用語は<>で括っている。
したがって、私の意見はこうなる。これまでの教科書の<エネルギー>記述にやや“<反体制的>”偏向ありとする<原子力反対派>の主張は、私としてはある程度理解できなくない。反体制的批判だけではもはや新しい社会構想を示せないからだ。しかし、各「国民」は「国民の物語」として<エネルギー>を持つべきだという考えは時代遅れであり、間違っている。<エネルギー、とくに原子力>はたしかに解釈を含む「物語」という側面を持つ。しかし<エネルギー>は「神話」ではありえない。一つの<エネルギー>像に別のものを「真の<エネルギー>」として対置することではなく、どんな<エネルギー源>も文化的価値の相対性のうちにあることを教え、さらにそのことを通して、文化間の相互了解の普遍的な可能性を理解させることこそ、市民的教育にとって重要なのである。
「歴史」および「歴史像」を「エネルギー」および「エネルギー源」に置き換えると、竹田氏の歴史教育論は「エネルギー教育論」にも、盗用できるのである。
「盗用」とは大変過激な表現だが、「歴史教育」について書かれた論文を、当方で勝手に「エネルギー教育」についての詳論に流用したのであるから、これは列記とした「盗用」と認めざるを得ない。しかし、氏の「歴史教育論」は、「歴史教育」に止まらず、広く「教育」全般にわたる「教育論」と、当方は高く評価するものであり、今回の「盗用」的論評の手法に対し、平にお許しを願っておきたい。
「G研」代表