歴史は相対性のうちにある
この2001年3月15日付「朝日新聞」の「論壇」で論じられている教科書問題は「歴史教育」がテーマだが、この竹田氏の主張を拝読して行くと、エネルギー専門家の我々が常々頭を悩ませている「エネルギー教育」のための「教科書問題」とオーバーラップして同感できることに気付いたのである。
「歴史」と「エネルギー」−−−一見、無関係のように見えるが、教育現場での取り上げられ方に関しては類似点が多分にあるように思える。よって、当「原子力問題研究室」が取り上げる「同感できるG情報」に加えさせていただくことにした。
> 「つくる会」教科書検定問題は、現代社会における歴史教育(また教育そ >れ自体)についての鋭い意見対立を喚起した。しかし私見では、この議諭対 >立の内実は、戦後を長く主導してきた“進歩=革新陣営”対“保守陣営”と >いう政治的対立の一表現にすぎないと思える。この対立はさまざまな局面で >果てなく繰り返されてきたもので、現体制の容認か否認かという二項対立に >しか行きつかない。私は「天皇の戦争責任」という本で共著者(加藤典洋・ >橋爪大三郎)とともに、このどちらでもない議論の立場のありうることを示 >そうとしたが、ここでも同じことが言える。最初のパラグラフは、この「論壇」のいわばプロローグであるから、読み流してもいいだろう。
> 歴史教育は国民に共同的な世界像を与えることができる。だから、右の対 >立の中では、一方は自国肯定的な歴史像を教えたいし、もう一方は否定的な >歴史像を与えたいことになる。ここにはそれぞれの陣営の「思惑」の対立だ >けがあって歴史教育をどう考えるべきかという原則が出てこない。このパラグラフを「エネルギー教育」に置換してみると次のようになる。
エネルギー教育は国民に共同的な世界像(全地球的な視点で捉えなければならない)を与えることができる。もう一方は否定的なエネルギー像(原子力に恐怖感を植え付ける)を与えたいことになる。ここにはそれぞれの陣営(原発反対派 vs 原子力推進派)の「思惑」だけがあってエネルギー教育をどう考えるべきかという原則が出てこない。
> そこで私は、社会と教育についての一つの原則的理念を提出してみたい。 >この理念の大枠は近代哲学の歴史の中で市民社会原理として綿密に育て上げ >られたものだが、資本主義の巨大な矛盾に出会って一旦見捨てられていた。 >しかしその乗り超えの試みとしての社会主義原理(絶対平等理念を基礎とす >る)が挫折したことで、もう一度、真正のリベラリズムの可能性として根本 >的な仕方で鍛え直されるべき理由をもっている。このパラグラフは、そっくりそのままエネルギー教育にも当てはまるであろうから、置換する必要はない。