<その2>

電気新聞(2001年1月31日)
時評<ウェーブ>

    「加州大停電が意味するもの」


> しかし、こんな事態はとうに予測できたことでもある。すでに70年代か
>ら80年代にかけて、航空業と運送業における規制緩和が多大の犠牲をアメ
>リカ国民にもたらしていたのだ。つまり、過当競争の結果として中小零細の
>企業が次々と倒産し、航空・運送のサービス供給は独占もしくは寡占の状態
>に入ったのである。そうなれば、価格水準が過去の趨勢をはるかに上回る形
>で上昇する。結局のところ、厖大な失業者と価格の引き上げ、それが航空・
>運送というかなりに公益性の高い業種における規制緩和の結末だったのであ
>る。それなのに電力供給の自由化が強行されたのは、規制緩和=自由化=市
>場化がアメリカのイデオロギー(固定観念)であったからにほかならない。
 次のパラグラフでは一転して、「しかし、こんな事態はとうに予測できたことでもある」と、エネルギー政策決定プロセスに責任のある関係者に厳しく糾弾されているのだ。小気味よい響きが、我々先生の同調者の耳には聞こえるのである。

 「規制緩和」という言葉は、一見快く聞こえるが、それは必ずしも国民に平均してメリットをもたらすとは限らない。時には過当競争を引き起こし、中小零細企業の倒産もあり得るのだ。特に公益性の高い業種における規制緩和は慎重に踏み切らなければならない。そういった教訓を得たはずなのに、電力業界にも自由化が強行された。その理由として考えられるのは、規制緩和=自由化=市場化というアメリカの固定観念がまたしても悪用されたからだ−−−西部先生の崇高なご意見を要約するとこう言うことだろう。

> とはいえ、現実に電力供給が絶えるという状態に追い込まれれば、カリフ
>ォルニア州民も電力事業を公共当局が行うよう要求せざるをえない。事実、
>そういう要求が高まってもいる。こうした有り様をみて、日本国民はどう思
>うのであろうか。アメリカに右倣えするのを常習としてきた戦後日本人は、
>十年ほど前から、電力自由化を「改革」と称してきた。日本の電力料金は高
>すぎる、だから自由競争を電力事業にも導入して価格低下を図るべきだ、と
>主張する改革主義者が跡を絶たないのである。
 市場が自由化=民営化された環境で、カリフォルニアでは現実に電力供給が不十分な事態に追い込まれており、そうなると、世論も行政府も、電力事業を民間から引き上げ、公共当局がやらなければならないだろうという雰囲気に追いやられる。これはまさしく時代の逆行であり、とうてい容認するわけには行かない。

 日本国内の最近の例で説明すれば、国鉄から民営化されてJRになったが、そのJRから再度国営化した公営にしようというのと同じだ。ただ、日本の電力業界は、戦後9電力体制の民営でうまくやってきたが、それをもっと自由な市場原理を導入しようとなり、その自由化がうまく行かないからという理由で、戦前の国営の電力に戻そうという意見だ。ますます容認するわけには行かない。

 日本列島と沖縄を10分割し、それぞれの電力会社が互いの管轄を犯さないよう約束して供給してきた。これでは、完全な民営事業とはいえず、そこには自由競争がなく、価格も安くならないから、日本の電力料金を欧米先進国並みに安くするためには、自由競争させる「改革」こそ必要という狂信家が跡を絶たない−−−こういった連中のイデオロギーに振り回されてはならないとおっしゃっているのだ。的を射た教えではないか。

> 幸いにも、日本における電力供給の自由化はごく局所的なものにとどまり
>そうではある。しかし規制緩和を無条件に是とする改革論は今も健在で、し
>たがって、ブッシュ政権が我が国につきつけてくるに違いない「構造改革」
>の中味は、まず間違いなく、規制緩和のことなのだ。そして日本がわにも、
>規制緩和については、それを文句なしの立派な改革とみなす姿勢が固着して
>しまっている。それゆえ、長期的にみれば、日本の様々な公益事業が自由化
>によって少しずつ崩壊させられていくという可能性がたしかに存在する。
 「日本における電力供給の自由化はごく局所的なものにとどまりそう」とは、まだまだ油断を許さない状況だが、ただ、規制緩和のすべてがいいわけではない。とりわけ、アメリカが強制してくる規制緩和は良くない。日本には日本的やり方があり、そのひとつが「公益法人」の考え方だが、これも国内外からの圧力でいずれは崩されて行くのであろう。

> カリフォルニアの大停電は、こうしたマーケッティズムの軽薄にたいする、
>重大な警告となりうる。経済学の標準的な教科書においてすら「市場の失敗」
>という章がかならず盛り込まれている。そこには、「規模の経済」(巨大固
>定設備を要するがゆえに大規模生産のほうが効率がよいこと)や「不確実性」
>や(公共財におけるような)「共同消費」という要因があるときには、市場
>の競争システムは失敗すると書かれている。そして電力事業には、そうした
>市場を失敗させる要因が伴っているのである。
 最近の自由化の動きは、経済学の標準的な教科書にも逆らっている。これでは、「市場の失敗」は目に見えており、ましてや「規模の経済」や「不確実性」「共同消費」という教科書の教えに逆らった電力事業の自由化は「失敗」するのは必定と、西部先生は断定されているのである。

> 電力事業のことにかぎらず、公益事業には政府の介入があって当然である。
>というより、「良き介入」をできるような「良き政府」を作り上げる、それ
>が真のデモクラシーなのである。そのことが、これから始まる新世紀の最初
>の十年間において問われることになる。その意味で、今現在にたいしては
>「公共性の時代」という形容を付すのが適切である。
 マスコミや政治家たちがこぞって「規制緩和」を唱えているご時世であって、「公益事業には政府の介入があって当然」と明確にいえるオピニョンリーダーは、西部先生をおいて他に知らない。「規制緩和」は、いかなる分野でも正しいとは限らない。政府の「良き介入」ができるように「良き政府」を作り上げることこそ重要なのだ。それがこの新世紀の最初の10年間には特にますます重要になってこよう。いまこそ「公共性」という言葉の意味を見つめなおそうではないか、と示唆されているのである。

     「G研」代表