金子熊夫教授は、外務省生え抜きの外交官だが、UNEP(国連環境計画)に出向されていたこともあって、環境問題やそれに深い関わりのあるエネルギー問題にも詳しい数少ない国際政治学者の第一人者として、我々も常日頃から敬意を表してきた。

 その金子教授が3月28日付け読売新聞の「論点」に「原子力教育の危機」と題して寄稿されていた。早速拝読し、僭越ながら「同感できるG情報」欄に取り上げさせていただくことにした。

 毎回ながら、「同感できるG情報」はとくに全文を転載したいところだが、著作権云々で新聞社の方からクレームが付いても困るから、アンダーラインを引いた部分のみ転載しておこう。我々からのコメントは不要だろうが、目障りにならない程度、若干付記させていただいた。

 もちろん、この拙文に目を通していただいた方には、全文を読売新聞から切り抜きして熟読されることをお薦めする。

読売新聞(2000年3月28日)

<論点>      原子力教育の危機

                    東海大学平和戦略国際研究所教授
                     金子 熊夫(かねこ くまお)

>いわば、現在は日本のエネルギー問題の正念場であり、一時的な現象に惑わ
>されることなく、21世紀を見据えた長期的かつ理性的な判断が強く求めら
>れている。
 わが国のエネルギー政策「長期エネルギー需給政策」が、前回から2年が経過しただけで見直し作業が始まった。今度こそ、「21世紀を見据えた長期的かつ理性的な判断」による政策を決定してもらいたいものである。

> そもそも原子力関連の法令や制度がいかに整備されても、最後に頼りにな
>るのは人間の判断力である以上、最も肝心なことは、原子力に携わるすべて
>の人たちの意識の根本的な改革であり、そのための教育、訓練の徹底である
>はずだ。
 原子力の安全性は、法令や制度ではなく、一にも二にもそれらを運用する人間の能力とモラルによると、我々は常日頃から主張してきた。金子教授も同じ主張であって、心強く感じている。

> だが、未来の原子力産業を担うべき科学者や技術者の養成を使命とする大
>学教育の現場に目を転ずると、現実はきわめて悲観的である。近年加速して
>いる学生の「理工科離れ」現象に加えて、相次ぐ事故や不祥事ですっかり人
>気を失った結果、全国の大学の理工系学部で原子力を専攻する学生が激減し
>ている。
 我々もこれを一番心配している。どの業界も同じであろうが、自分たちの後輩たちが滞りなく排出されてこそ、業界の発展につながると信じて疑わない。

> わが国が予見し得る将来、おそらく最低でも来世紀の半ばごろまで、原子
>力発電を何らかの規模で続けるとして、その間、常に一定の水準と数の専門
>家、技術者を確保しておかねばならないことを考えると、これは甚だゆゆし
>い事態と言わざるを得ない。百歩譲って、わが国がいつの日か原子力発電か
>ら完全に撤退すると仮定しても、今までの原発活動に起因する諸間題、とく
>に放射性廃棄物管理・処分などの解決には非常な長期間を要するので、人材
>確保の必要性は減らない。
 原子力の専門家や技術者の一定水準と人数の確保が難しくなってきている原因は、一連の不祥事によるところも大きいが、それにも増してマスコミの執拗な攻撃が、内部の人間を腐らせ、入ろうとする人材の芽を摘むことになっている。

 人材の量と質の低下は、安全性の低下につながることは火を見るよりも明らかである。これには、いくら安全技術を飛躍的に進歩させても、安全規制をいくら徹底させてもカバーしきれないのである。

> しかし、憂慮されるのは、少数の理工系学生に対する専門教育だけではな
>い。およそ民主主義社会においては、国民の意向が最終的には国の政策を左
>右するが、その一般市民の予備軍である学生、とりわけ大学人口の大半を占
>める文系学生が、エネルギーや原子力問題についてあまりにも無知、無関心
>であるということである。
 「エネルギー問題は我々専門家だけでは解決できない。国民一人ひとりが自分たちの問題として捉えていただかないと究極的な解決策は見つけられない」と主張し続けてきた。しかし、国政の場ですら真剣にエネルギー問題が議論されたことはないのではないだろうか。少なくとも、すべての国民がエネルギー問題に関心を持ち、専門家を交えた議論に加わってもらいたい。

> 原因は明らかで、彼らがバランスのとれたエネルギー教育を受けていない
>からにほかならない。エネルギー問題は、地球環境問題と同じように自然科
>学と社会・人文科学にまたがる典型的な学際領域であり、旧来の縦割り学部
>の教育システムになじまないため、一般教育としてはほとんど行われていな
>いのが現状だ。
 欧米では「Energy Education=エネルギー教育」という言葉自体が日常語になっているが、日本では未だ専門家の間に限って使われているだけである。エネルギー問題や環境問題は、一般教養課程の必須科目としなければならないだろう。でも、そうなれば誰が教えるのか、ということになり、教師の質と量が問題になるだろうが、先ずは科目に上げることが重要であろう。

> エネルギー教育の基本は、日本は21世紀を迎えようとする今も、昔と同
>じくエネルギー資源小国、消費大国であり、しかも化石燃料の海外(とくに
>中東)依存度が他の先進国と比較して際立って高く、安全保障上不安定であ
>るという客観的事実(最近のアラビア石油社の権益失効問題はその一例)を
>徹底的に自覚することである。
 それはそうだが、正解が分かっている問題のみを漁って勉強するだけが学問ではないだろうから、エネルギー問題の「本筋」は何かを探すことからはじめてもよいのではないだろうか。日本の戦後の教育の欠点は、受験に代表されるように、答まで与えて丸暗記させる教育が一貫しており、生徒自身に「考えさせる教育」が不足しているところにあると思う。「エネルギー教育」は、まさに「考えさせる教育」でやってもらいたい。

> そして、そのことと地球温暖化問題などを考え併せれば、日本の当面の選
>択肢としては、好むと好まざるとを問わず、現在すでに総発電量の36%を
>占める原子力に今後も依存するほかないことは明らかである。
 だから、ここは我々と金子教授の考えが少し違うところである。「好むと好まざるとを問わず、原子力に今後も依存」となると、エネルギー教育が「原子力選択のための教育」になってしまい、これでは教える方も教えられる方も興味を半減させてしまうだろう。

 これからの日本のエネルギー源の選択は? という問題の正解はないのである。つまり、石油と答えても、石炭と答えても、太陽光と答えても、もちろん原子力と答えても、みんな正解なのである。それは「エネルギー教育」の原点だということを忘れてはならない。

           「G研」代表