読売新聞(2003年7月4日)

<社説> 「原発再稼働」

(その1)


 「当面の電力需給見通しについて」と題する東京電力からの報告書が、ほぼ2週間ごとに発表されている。7月8日(火)も出されたばかりだ。

 内容を見てみると、約2週間前の6月23日(月)に出された前回の報告書からまったく好転していない。我々原子力技術者は、この7月4日(金)付け読売新聞社説の論旨に諸手を挙げて賛同するものである。

 そもそも我々の胸の内は、我々の仲間ともいえる東京電力の原子力発電所で働く技術者が不祥事を犯したことは、まったく遺憾とするところであり、いいわけの余地すら皆無であることを全面的に認めるものであるが、この大停電の危機を引き起こそうとしている諸事情には理解に苦しむものである。

 つらつら考えてみますに、この一連の不祥事で罰せられるべきは、不祥事を犯した人間であって、技術の結晶ともいえる原子力発電システムではないはずだ。

 ところが、東京電力が保有する17基の原子炉のうち、不祥事とは全く関係なかった柏崎刈羽原発の6、7号機の2基だけが地元新潟県の了解を得て運転にこぎ着けただけである。あとの15基は未だ止まったままだ。

 7月9日現在、少なくとも福島第一・6号と柏崎刈羽・4号は、国の安全宣言も出されていて、いつでも運転開始が可能な状態にある。

 では何故、さっさと運転を始めないのか? それは地元の了解が得られないからだという。

 安全規制に基づく判断の権限が、いつの間に国から地元に移ったのだろうか?法的な根拠はないはず。しかし、地元の意向は、原発を引き受けてもらった段階で、国と事業者、それに地元との三者による約束事に調印することが慣習化してしまった意向、重視されるようになった。

 これも「素人の地元が安心してくれるなら」といった、国の規制当局や事業者による軽い気持ちで慣習化したところに問題があるようだ。

 グローバル(全地球的)な観点からエネルギー政策を策定しなければならないといわれるが、その国家規模のエネルギー政策に対して、電源立地を引き受けているとはいえ、一都道府県の知事に口を挟む権限はないはずだ。

 夏本番の季節が目前に迫っている。首都圏の大停電は、首都圏の住む者だけの問題にはとどまらない。この読売新聞の社説にしっかと目を通して、日本のエネルギー問題、原子力問題を考えてもらいたい。

 そういった切なる願いを込めて、その社説を転載するものである。

            「G研」代表

          (社説の全文は次ページに)