<論>情報公開要求なら

      民衆も正しく理解できる努力を


 「情報公開が社会正義の上位にのぼりつめてからすでに久しい。純理論的にいえば、情報公開を正義と見立てるのは間違いである。なぜなら、情報公開が正義であるためには、民衆は公開された情報についておおむね正しい解釈を下す、という前提がなければならないからだ」

 9月19日付の電気新聞に掲載された西部邁先生の「情報公開をめぐる傾向と対策」と題する時評の冒頭の一節である。

 隠し事はいけない、と信じて疑わなかった者の一人として、先生の説はショックだが、おおむね正しいと認めざるを得ない。

 ガンと診断された場合、患者に正直に伝えるべきかどうか、未だに論議されている。最近でも、北朝鮮に拉致された方々の死亡時期まで情報公開すべきだったかどうかで議論が分かれている。

 こうみてくると、情報は何もかも正直に、相手の気持ちなどは配慮する必要もなく伝える、あるいは民衆に公開していいとは、一概にはいえないと、思えてくる。

 東京電力は、原子力発電所の点検・補修状況の一部を隠していたことを認める調査報告書を、ちょうど小泉総理が総理として始めて訪朝された同じ日の9月17日に発表した。

 経済産業省原子力安全・保安院が、8月29日、「原子力発電所における事業者の自主点検記録に係る不正等に関する調査」を発表して以来、マスコミは連日、「東電のトラブル隠し」関連ニュースを流し続けた。挙げ句の果てには、経営トップの五人もが責任を感じて辞任すると発表されるに到った。

 この一連の動きの情報をマスコミを通じて知らされた我々市民は、原発の現場で東電の技術者が失敗を繰り返し、大きな事故を引き起こしていたが、その情報を組織ぐるみで隠していた・・・、だから原発は何が起こるか分からないから恐いんだ・・・、というくらいの心理が誘引しても決して不思議ではないほどのフィーバーぶりではなかっただろうか。

 ところが、同調査報告書によると、点検によって見つかったきずやひび割れや修理箇所を隠していたことは確かだが、安全上問題ないことも確認し、保安院も今回改めて認めている、というではないか。安全上問題なければ報告しなくてもいいのではないか、といった(自信に基づく)心理が同社の補修部門には働いた、と分析しているのである。

 独善的判断では間違える可能性はある。そのために公的な検査機関もあるのだろう。しかし、我々市民は、安全技術を正しく理解する知識はまだ身に付けていないから、ストレートな「ガン告知」だけは御免被りたい。