「信じる者は救われる」という言葉そのものが聖書の中にあると思っていたが、そういう直接的な表現ではなかった。ヨハネ第3章 36節に「御子を信じる人は永遠の命を有し、御子を信じようとしない人は、命を知らず、その人の上に神の御怒りがふりかかるので ある」が「信じる者は救われる」となった。
今年は、オウム真理教事件によって日本中が振り回された。当紙でも何度かこの問題を取り上げたが、もうこれで最後にしたいもの であるから、少々厳しく諭したい。
この忌まわしい事件で最も関心が寄せられた疑問は、「何故あのような最高学府に学び成績のいい若者たちが、インチキ教義を易々 と信じてしまったのか」ということである。そのあたりを評論家・西部邁が雑誌「SAPIO」の10月11日号で分析している。
「今の若者たちは、戦後日本の物質的な豊かさの中での退屈と、社会的な等しさの中での苛立ちに完全に巻き込まれているといってよい のではなかろうか」と。そして、また、「宗教に入信するなら、その前に従来のキリスト教や仏教、イスラム教などについて、少しは 考えるなり感じるなりしてみる必要があるのではないか」
「私は青年たちにいいたい。自らの20〜30年の人生体験でほとんど経験もなければ学びもしなかった宗教に、軽々と飛びついて、 あとでほぞをかむ羽目になるくらいなら、その前にやるべきことがいくらもあるのではないか」と手厳しく教えている。
で、冒頭の「信じる者は救われる」という教えで、本当に迷える人間を救えるか、という疑問が湧いてくる。これはキリスト教の有名 な教えだが、他の宗教もほとんど同じ教えで排他的である。となると、やはりいかなる宗教にも軽々しく飛びつくものではない。
いや、宗教だけではない。まず「疑ってみる」ことも重要ではないか。原子力論争もしかり、賛成派、反対派、両者の主張をまず疑っ てみることが肝要ではないだろうか―。