OPECは、Organization of Petroleum Exporting Countries の略で、石油輸出国機構という。1960年9月10日、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの産油国政府代表がバグダッドに集まって、結成された。国際石油資本の一方的値下げに対抗するための、いわゆる国際価格カルテルだ。
メジャーといわれる国際石油資本は、米、英、オランダの7社(フランス石油もいれて8社とすることもある)で、資本、採掘技術、販売面を支配し、その圧倒的な力で石油価格の決定権を握り、長らく安定した価格が続いた。ところが、アルジェリア、リビアなどアフリカ各国が産油国になり、ソ連も原油輸出に乗り出したため、これに対抗してメジャーは一方的に値下げした。原油生産国はこれに不満で、OPEC結成はこの対抗策である。
石油は供給過剰で、加えてメジャーの力は強大なため、はじめOPECは歯が立たなかった。しかしその間OPECにカタール、インドネシア、リビア、アブダビ、アルジェリア、ナイジェリア、エクアドル、ガボンが加わり13カ国となって力をつけてきた。
そして、1973年10月6日、第4次中東戦争が始まるや、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)がイスラエル友好国への原油供給削減を決め、OPECは間髪をいれず原油公示価格を70%、74年1月にはさらに2倍に引き上げた。
供給が減るのに買う方は不安感から何としても原油を手にしたいという心理にかられ、価格を問題にせず買いあさったため、値上げはすぐ通った。これを第一次石油危機(日本ではオイル・ショック)という。原油はさらに上がり、1979年のイラン革命に端を発した第二次石油危機で30ドル原油時代を迎えた。
しかし原油が高くなると、条件の悪い油田も採算が取れるようになり、英国、メキシコなど、非OPEC産油国が供給を増やした。このため1970年には世界の生産量の55.9%だったOPECのシェアは、1989年には36.6%に落ちた。
また、原子力、天然ガスなど石油代替エネルギーの開発が進んだこともあり、OPECの価格支配力は弱まった。OPEC内部にも分裂が生じサウジアラビア、クウェートは高い価格で需要を減らすより、安い価格で需要を確保しようと増産したため、1987年には最高値の2分の1になった。
しかし、OPECの中にも、イラクのようにどうしても値上げしたい国があって、内部対立が激化し、これが湾岸戦争を引き起こし、イラクのクウェート侵攻となった。だが、イラクは敗北した。値上げに慎重なサウジアラビアは、戦争中も増産して、原油価格安定に努めた。
メジャーといい、OPECといい、価格の決定者のように見えながら、結局は、需要・供給の綱引きで価格は決まるという市場原理が強く働いているのである。
(大谷 健)